正邪・善悪について

戴いた~示しより抜粋

 

会員と御使いの神々との質疑応答形式と会話形式で記しております。
太文字が、御使いの神様からの御言葉になります。
尚、今回は神示しの解説も記載しております。
内容から補足の説明が必要なものは、更に詳しく記しておりますので、お読みください。

 

 

質疑 邪まな心を持つからこそ地獄に堕ち、正しい本当に素晴らしい正の心を持てば天国に行かせて頂けるのが、人だと理解してよろしいでしょうか。

 

間違いが正しくて、正しいものが間違いで、神の世界においては、何も無いと知れ。

 

解説 人が考える正と邪の判断基準など、神の世界では何の意味も無い。
全ては神が決める事なのです。
神の世界では人間社会の決まり(正邪の判断)は、通用するのか、しないのかは、神様が決める事なのです。                                 

 

 

質疑 人が肉体を失って、離れた場合、その魂(肉体に宿る~)は神界に戻るのでしょうか。
やはり地獄という世界なり、天国という世界のどちらかに行くのですか。

 

選ぶるべし者その者なり。                            

 

解説 色々なしがらみ、事情により本人が選んで行っているのです。              

 

補足) 肉体に対して悪影響をもたらす可能性が有る物品、食べ物等を極力吸わない方がいい、飲まない方がいいとか、これをしない方がいい、あれをした方がいいなどというのは、個人個人の捉え方であって、好きにさせると良いのです。
しかし、全て自由にさせれば、とんでもない目に遭う事になるでしょう。
「好きで地獄に行っている」という御神示を「私は、地獄に行きたくないから天国に行きます」と選べるのだと思う人も居るかもしれません。
悪い事をして来ても、死ぬ前になって「自分は天国に行ける、天国に行くと言えば、天国に行けるのだ」と思う人も居るかもしれません。
中には行ける人もおられますが、いろいろです。
好きで地獄に行っているのは個人の権利、好きで地獄に行っていると言うのは、好き勝手な事をし、恨まれる事は恨まれるままにしているから、肉体を離れた時に地獄に引きずり込まれたり、知らぬ間に恨みを買ってしまったりして、地獄に行ってしまう、自ら好んで地獄に行くのではなく、自ら好きなことをした結末として地獄に行く道を選んでいるというのが、好きでという意味なのです。

 

なぜならば恨まれて被害を受けた人も神の末裔、また、罰を受け、何かをして罪を犯している人を、痛めつけているのも、神の末裔。
恨む方も恨まれる方も立場によって入れ替わる可能性があるからこそ、恨まれて仕返しされるのも又、好きな事を行ってきた結果と言う意味合いも含まれていると思います。
その悪い事と言うのは、人の中の基準の悪い事であって、神の世界から見れば、どんな判定が出るのか解らないのです。

 

 

質疑 神が人に求める規則というのはあるのでしょうか。             

 

神が決めること。

 

解説 人が考える規定と、神の世界の規定では判定基準の差があり、規定の設定が出来ないのと、人に内容説明等する必要が無いので、神がその都度判定していらっしゃいます。

 

 

 

質疑 魂(肉体に宿る~)が肉体を離れた時点において、憑依霊・浮遊霊・地縛霊になられる方はおられますか。

 

邪の者とせよ。

 

解説 魂(肉体に宿る~)が肉体を離れたら、~ノ大元ノ大神様の元、神として生まれた所に戻る事が本来の定め、それを拒むのは邪まな者とされるのです。

 

 

質疑 その者達(憑依霊・浮遊霊・地縛霊)が望んでおられる世界にいると言う事でしょうか。

 

その通り。

 

 

質疑 地獄と言うものは、そういう形になって、行く訳ですね。

 

進んで行く者は、どこへでも行けば良い。

 

解説 邪まな者たちが作った地獄、極楽、天国が有り、そこに誘われる者たちがいます。
本来は、~ノ大元ノ大神様の元、神として生まれた所、神の世界に戻る事が本来の定めなのです。

 

 

質疑 自らが地獄に行くと言われましたが、肉体を持って生活していた時の因縁とか恨み事で、地獄に引きずり込まれると言う事があるのでしょうか。

 

その者の勝手、ならば、生かすも殺すも、そなた達の働きにあると思え!

 

解説 好きに地獄に行っているだろう?と言う言葉は、好き勝手にしているから、地獄に行くのでしょ?と言う裏返しになります。
人に恨まれる、嫌われる事をするから地獄に引きずり込まれるのです。
だからこそ、肉体を持っている時からの心の持ち方を大切にし、特に~ノ大元ノ大神様に対する思いの持ち方が重要なのです。
当会に課せられた目標が、神の御名と神の存在の知らしめが出来ているかが結果として出てくるのです。           

 

 

質疑 邪まな心を持てば地獄行きは確実ということですね。

 

天も地も、心一つであろうに。

 

解説 神の世界も人の世界も思いは同じです。                    

 

 

質疑 輪廻転生の仕組みの中、人が生きる上で、過去世のカルマの影響と言うのはあるのでしょうか。

 

神も罪があると、申しておこうか。

 

解説 神様も行いによる罪がある。

 

 

質疑 人も、罪を犯せば、その罪の償いを、しなければならないと言う事でしょうか。

 

~(しん)の世界では、神(しん)の世界もこの世界も同じ事。

 

解説 ~ノ大元ノ大神様の元では、神(しん)の世界も人の世界も同じ事。
罪を犯せばその償いをしなければならない。                 
人の罪というのは人間社会でのルールの中で、反則すれば、物質的な事柄で償わねばならない、人の生活上における贖いをしなければならないのですが、神の世界の償い方は、神の領域なので、神のみぞ知る事なのです。

 

 

質疑 その罪の規定というのは、基準はどのようなものですか。

 

神が決めること。

 

解説 その都度、その都度の神様の御判断に御任せする事になっています。

 

 

質疑 人が善悪の判断をしてはならないと神示し頂いている通りで御座いますね。

 

その通り。

 

 

質疑 良いか悪いかは、神様が判断されるということですね。

 

その通り。

 

 

質疑 人にとっての善悪の定義は何なのですか、罪を犯せば人も償わなければならないと、言われましたが、良いか悪いかは、神様が判断されるのなら、自由に何をしても良いと言う事になります、罪も善も無いと言う事になってしまいますが。

 

肉体を脱ぎ捨てれば。

 

解説 人の罪と言うのは人間社会でのルールの中で、反則すれば、物質的な事柄で償わねばならない、人の生活上における、贖いでしか無いと言う事。             

 

補足)と言う事は、人が起こした罪に関して、人の中で償うと言う方法を行っている。
同じ理屈での神の世界の償い方は別、神の領域の話しとなります。
人間界で何らかの事を起こして、肉体を脱ぎ捨てて、神の世界に戻ります、その時に人間界で犯した分の罪の償いというのは神の世界の中でもその罪のレベルにより決まります。
罪のレベルが深いのと深く無いのというのは、その尺度は人間の尺度では無く、神の尺度で決めるという事です。
こちらの世界でどう裁かれていようが、向こうの世界での事には関係無しの場合も有ります。
向こうで罪を償わなければ、いけない事を起こしていたら、償わねばならない。
だから、この現世に於いて人に対しては、良い事をしていたとしても、神に対する謀反というか、罪を犯していたら向こうに戻れば裁かれるという事です。              
逆に人間界で犯した罪があったとしても、反対に神に対する、尊敬の念、奉る心が有りとすれば、良しとなる可能性もあり、罪に問われないという場合もあります。                               

 

宗教的な事で殺される人がいますし、宗教自体を神が認めていないから、宗教の善悪と言うのは、神の世界では関係ないという事、直接、神に対する思いが正しいか悪いかを判断されるのです。            既存の宗教で言っている神というのは、ほとんど人が作った神です。            

 

極端な話、~ノ大元ノ大神様を信じる事こそが、最大の大愛であると言う事。                              

 

人が犯す罪で例えればAさんは人を殺し、即死刑になりました。
Bさんも人を殺しましたが、罪には問われられませんでした。
だから極端な話、Bさんは神様の仕組みの元で、殺された方の罪を殺される事で償わせたのかも知れません。
不条理と言うのは一杯起きています、人を殺しても命は取られないし、刑務所に行っても食事は与えられる。
その上、お金も貰え、2〜30年後には、社会生活を行える場所に帰って来らます。
そしてその人は殺人を犯した事を周りの人に知られる事も無い、そういう、不条理もあります。
この日本は、人を殺したからと言って殺される訳では無いのです。

 

しかし神の世界も人の世界も罪を犯せば、その償いをしなければならない仕組があるのです。

 

 

質疑 私共、今迄の学んできた中に於いて、間違いが沢山有った事を気付かせて戴きました。

 

人間で有ることに、正しき物など無いと心得よ。

 

解説 人は立場により解釈・価値観が違う時が多く、統一した判定は期待できないのです。

 

 

 

質疑 私共は、神様の絶対的正義が宗教にあると信じ、又、学び生活して来ましたが、神様は人に対して絶対正義は示さないのですか。

 

正義とは何と申しましょう。

 

人が従わなければ、ならない事です。

 

ならば自由であろうに。

 

今までの宗教の中には、そういう正義というのは示しては来られ無かったということでしょうか。

 

勝手に作った、ものであろうぞ、そなた達が。

 

それでしたら、宗教の最初は、神様が下したと御伺いしましたが、何の目的で下されたのでしょうか。

 

今の世と過去の世とは違うと、何を知りたいのだ。

 

その後の宗教には、神様の指示は無かったのですか。

 

神の指示などあれば、それは神の世界、神の世界において、邪な集まりなど無いと思え。

 

人の集まりとは違うと言う事ですか。

 

ならば、他に何があろうぞ。

 

解説 人の世界には神の世界とは違う独自の仕組みが有り、神様は神の世界の法則を人には用いないが、全ての判断判定は神がおこなう仕組みで現実の世界が動いているのです。

 

 

私達がこれまで認識した正と邪の事で、伝えたい内容をこれから記述します。

 

自らが自らの規定に於いて、善悪を判断するべきものであり、己自身の考え行いに対し、己が行う判断基準を人に当てはめてはならないものである、人に於いて善悪の判断は出来ないものである。

 

前にも述べたが人に善悪の判断は示してはならない、でもこれが良いか悪いかの判断を行っていって、自分自身に当てはめて行き、それを自分自身が消化して行かなければならない事である。
それこそが結局、自分に当てはめる善悪が人に対しての示しとか人に対する、お仕着せになってしまったらそれは悪であり我であり善では無くなる。
人々と自分とが共通する価値観、善悪と言うものを持って、人と対話し切磋琢磨し鍛錬していくことにおいて善悪の判断基準と言うものを高めて行く事は必要であるが、その高めた基準を他人に当てはめては悪になってしまう。
全ては人の心の中に有る我が、どの様な動きを起こして行くかになってくる訳であろう、たとえ善と言う形で有ったとしても、それを人に示し、お仕着せてしまったら、相手に対する暴力にもなり、相手から反乱、反抗が有ったりして結局、善は善で無くなり、正は正で無くなり、悪は悪のままになってしまう。
つまり全てが悪になり、全てが正になってしまう可能性もある。
だからこそ人が正邪善悪の判断をしてはならないのではなく、出来なくなっていると自覚しなければならない。

 

本来ならば神の元、閃きを戴いて善悪を見極められるべきものが今の人間には、閃きを戴く力は無い。

 

自分が持っている善悪正邪の判断を尊ぶことは重要ではあるが、それを人に対して示したり、強要してしまったならば、それは善悪正邪の判断では無くなってしまう。
つまり自分自身の心、思いの中に於いて初めて善悪正邪の判断と言う基準が成り立つ訳だが、指し示してしまっては、もはや善悪の基準では無く成り、正では無く成る。 だからこそ人間社会に於いて善悪と言うものは成立しないのだが、個人個人の心の中には成り立たせて行かなければならないものである。
存在はするけれど、肯定は出来ないのが人間の善悪の判断、正邪の判断で有ると、言えるのではないだろうか。

 

価値が有るのか無いのか、虚ろな心の中にしか成立しないのが人の中の善悪で有るからこそ、神の言われる人に善悪の判断は出来ない理由がそこにある、我が優先してしまって、判断基準結果を求めてしまう事に成るから、出来ないと言う神示しを戴いております。

 

子供を育てて行くのには逆に善悪を教えて行かなければならない。
善悪の押し付けではなく、善悪を判断する基準を教えて行かなければならない。
当然子供に対して、注意をするが、何かをしたから悪いのだと詰め寄るのではなく、最初から定義を子供に示してから善悪のたてわけを経験させる。

 

まず、人が嫌がる事、苦しむ事、悲しむ事、泣き出す事、痛がる事をする事は悪い事と、人に好かれる事、喜ばれる事、楽しませる事、朗らかにする事、褒められる事は良い事と単純ではあるが、教える。
大人になれば、又、社会に出れば、その場その時の環境で善悪の評価は変わるが、子供には定義を先に説明して教える。
只、ここをこうするから悪くなるのだ、ここをこうすれば良くなるのだと、罰を与えるのではなく、善悪の判断の仕方を教えて行く、親の善悪の基準を子供に示して行く事はしなければならない。

 

しかし、子供が10歳14歳に成れば自我が生まれ自分の価値観、善悪の判断の基準が生まれて来る。
その時にこそ、人に自分の善悪の基準を押し付けては成らないことを教えておかなければならない。

 

子供が10歳14歳に成るまでは、躾をし、思春期には人と自分との価値観などの差に悩みながら自分独自の善悪の基準を築いて行き、大人になれば行う事全て、言動にも責任を持たなければならなくって来る、そこで本当の善悪の基準を身に付け、又、自分の子供に教え伝えて行きます。

 

その結果、人々が同じ善悪の価値観を持ち、いつも神様に感謝する日が来る事を望みます。

 

続く